我に苦労を負わせたまえ

このみ言は、文鮮明先生が、クリスチャンの受け入れなかった失敗により、40年荒野路程、堕落していないけれど堕落した立場に立たれされながら、サタンの支配下でサタンの猛威の振るう堕落圏内でカイン中のカインの立場で、基台となるべきクリスチャンの身代わりに弟子を伝道される最中の、ただひたすら、神の子としての証明、『愛と犠牲の道』を喜びの心情でただひたすら歩まれた時代の貴重なみ言である。整理して、わかりやすくお伝えしたいけれど、徐々にしていきますので、現時点で、そのまま訓読してください。

み旨と世界
9・我々は何故苦労しなければならないか
1972・9・11 韓国 水澤里

 いかなる宗教でも、苦労ということが目的に行く過程において絶対的要件となっている。なぜ苦労が必要か? これが問題である。原理で教えられるところによると、人間は堕落し、無原理段階に落ちてしまった。人間としての形はもっているんだけれど、本然の神の理想に沿うような基準から見た場合、それは原理の内容に立っている価値のものと見ることはできない。そういうような人間が、再び復帰の目的に戻っていくには、反対の方向をたどっていかなくてはならない。反対の方向というのは結局再創造の道である。
 こう考えてみると、自分というものは、神を主体とすれば相対の立場に立つ。堕落しなかった場合には、主体と相対は同一な次元において理想を果たすべき存在であった。それが堕落してしまったのだから、我々は相対的立場にいるんだけれど、その相対的価値、あるいは内容においては、神は相対者として認めることはできない。 

 人間創造の目的

 神はなぜ、人間を造るようになったか? 
第一の目的は、相対者を必要とするためである。
第二の目的は、無形世界と実体世界の万物に通じるに、神自体が形をもたなければならないためである。
  そう考えてみた場合に、アダムという存在はどういうものか?
 結局、無形の神がアダムの形をとって、主体者として実体界に立ったものである。
第三の目的は、主体と相対が一つになる愛の理想を果たさなければならない。
愛の理想圏を永遠に残すためである。

この三つの目的を中心として人間を造るようになった。

人間を造るには、神から見た場合に力を投入しなければならない。創造というものは、結局主体なる神から力を加えられる、ということである。その限界というものは、相対者が完全になるまで、そこに力が加わらなければならない。そして一つになってこそ、初めて神の理想が生まれてくる。
 創造理想から見れば、神の愛というものは完成した基準において生まれるべきである。
その完成基準まで上がるには、我々、原理で教えられるように、三段階過程を通過しなければならない。それは成長の期間でありながら、神がエネルギーを投入する期間でもある。その力が完全に投入されて、相対者として立ったならば、そこから初めて戻ってくる。戻ってくるには、より以上の力でもって主体に向き合う力が加わらないと戻ってこれない。それが愛の力である。愛なくしては、神が投入したエネルギーが戻ってくる道が生まれてこない。

 そう考えてくると、神自体が相対者を造るということは、これは消耗する立場である。あるものを存在させるには、そこに力の投入、力を犠牲にさせなければならない。これが創造の本然の姿である。 

 我らの犠牲の道

 だから、再創造の復帰の道をたどっていく我々人間としては、その道をたどっていかなくてはならない。自分においては再創造することができない。神によって、再び理想の自分に向かって投入する道を経過しなければならない。ここに神が、再び力を投入したという立場に立たなければならないのだから、そこに犠牲という道が生まれてくる。相対者を造るということは、結局、犠牲の道の始まりである。 それが原理の本源の基準になっているから、理想世界、あるいは完成の人間を求めていく宗教においては、苦労の道を行かなければならない。自分を中心として、現実のそのものを犠牲にしていかなければならない。その犠牲の度合いによって、神の本性がもとがえされる。いわゆる再創造の道を、自分なりに開拓していかなければならないのが堕落の結果我々の立場である。だから宗教においては苦労、苦行の道をたどって行かなくてはならない。それが根本になっている。 発展の段階を見た場合、神はそもそも、実体界を造る前に天使界を造った。その天使界は、実体者としての理想を授けるところではない。それは目的に向かって過程を通過する期間と同じである。それが、神を中心として、天使と一つになって、実体の相対圏を造り出したのが、それが万物世界である。そして、天使と神が一つになって人間を造った。 神が霊的基準において相対圏を求めて造ったのが天使界で、実体者である人間が、神に向かって何かの感覚を授け、価値の刺激を与える立場ではない。その道がないから、中間的天使界を通して、人間を創造する過程において、刺激されたいとして、天使を相対の立場に立たせて、あるいは讃美の立場に立たせ、あるいは相談する立場に立たせて人間を造った。
 天使は、人間が造られていく段階ごとに、相対的な感謝とか、刺激を神に与えることによって、人間を造る過程の喜びを得ることができる。自分なり消耗の立場に立っておりながら、天使長の神に対する讃美、あるいは慰めの刺激、喜びの条件をもってして 、神に刺激させ、人間を造る過程において喜びを得るようになっていた。そういうふうにして、天使と共に人間を造った。そうすれば、人間というものは、天使的価値、目的を完成させるような立場に立たなければならない。あるいは、神の目的をかなえるような、二重の価値の基準に立ったのが人間である。だから、神は人間を目的としている。天使長は人間に対して希望をもって援助してやる。こう見れば、アダムという存在は、天使長の理想の完成者にならなければならない。そしてアダムというものは、神の理想の完成者にならなければならない。 それでは、なぜ、エバを造ったのか。神と天使長、あるいは神とアダム、こう見れば、一対一の立場において縦的関係である。上下関係である。それは一点にとどまる。天使長が中心点に立った所は、神も立たなければならない。

 なぜ、相対圏を必要とするかといえば、共に横的基準を広める、中心を中心として相対圏を求める、相対圏は面積が必要である。ここにおいて横的な基準がつくられる。縦的な関係を横的に適用しよう。それが創造の目的である。もしも、神と天使長、神とアダムという立場から見た場合には、すべて完成した場合に、中心点は一つにとどまる。その縦的一点を横的に広めるためにエバを造った。だから縦的な愛が横的な愛に展開される。

 アダムという存在は、天使長の目的完成の位置に立つものである。神の理想の中心者として立つものである。だから、天使長の目的と神の目的を共に完成した位置に立つものがアダムである。そのアダムという立場を、縦的な神の愛を刺激的な二重相対者として、横的に立たせたものがエバである。それが再び一つになった場合には、縦的な愛の力が横的につながることができる。だから、そういう立場を堕落のために成し得なかったのだから、この立場を再び復帰してくるのが、今までの歴史の摂理である。まず、天使界を神が創造したと同じように、天使的な使命を完成させなければならない。その次に、アダムの目的完成がある。アダムというものは、神の相対者の立場に立つべきで、神の理想の完成者として立ったならば、そこにおいて、縦的の愛の理想が横的に展開される、それが創造の相対世界である。神を中心とした天国である。 

 エバの創造

 あなたたちにおきましても、父母を中心とすれば、子供も縦的関係になっている。もしも親がいない場合には、横的な立場においての相対圏が生まれてこない。だから、親につながる愛のその実感を横的に共に適用される環境をもつことによって、相対圏の理想圏が成り立つ。だから縦的に一つになったのちには必ず、横的に一つになる道がある。縦を主体とすれば横は相対圏である。 それを、神を中心としての愛を中心として、つながせたいとして求めてきたのが、アダム、エバの創造である。だから縦的な愛を横的に広げるために、相対者を造らざるを得ないのである。もしもエバがなかった場合には、人間は神ばかりの縦的理想にとどまり、天使界と同じ立場になってしまう。実体世界ではない。実体世界は横的理想をつなげるために、絶対造らなければならない。その横的の代表者として立つべきなのが、エバという存在である。 アダム、エバが一つになった場合には、共に相対となり、また主体、相対関係になる。一つになった基準から見た場合には、神は縦的な主体者になる。だから縦横共に、その愛の中間機関として連絡させることができる。ここにおいて、霊的理想と実体的理想が生まれてくる。だから、我々人間において、アダムの前にエバがなければならない。これが横的に一つになると、自然と縦的に一つになるようになっている。アダムが完成したとするならば、神が力を投入したその力が、マイナスになるのではなくて、相対者として神に向かうアダムの理想が、神に引き付けられ、神を求めるそういう力の作用になるから、結局、神が投入したより以上の力となって戻っていくことができる。そして神を刺激することができる。その刺激の力の基準がいわゆる、愛というものである。愛なくして戻っていくことができない。戻っていく愛によって、神自体が投入したより以上の強い愛として神に戻っていくのだから、そこにおいて初めて神は喜びを感じることができる。 親が子供を愛する。愛の道は犠牲が基台になっている。愛する者に対しては犠牲になっても、何の苦しみも感じない。なぜかといえば、子供を愛するんだから、愛の心情がその中に秘められているから、いくら力を投入しても愛によって再び力が戻って刺激となる。力を投入すればするほど、十の力を投入したとすれば、子供がそれ以上の姿だけとって立っても、親はそこに喜びを感じる。苦しみを乗り越える力の刺激を受けて喜ぶようになる。 男女でも、愛する者に対しては、犠牲になっても、自分の命を懸けても喜びを感じて、愛すればこそ無限に投入しても、無限に喜びを感じることができる。愛というものは自分の創造したより、強い力として神に戻って、刺激となるから喜びを感じるようになる。 犠牲自体から考えてみれば、これは消耗である。マイナスである。マイナスになりながら、いかにして喜びを感じるようになるや。現実の平面的立場から見た場合に、絶対そんなことはあり得ない。しかし、愛あればこそ、これは可能である。 なぜ神は愛を投入するようになったか? 愛がなければ帰ってこない。共に愛するところには、共に犠牲の力を投入したより以上の力でもって、授受作用を永続させることができる。だから永遠というものは、愛なくして成立できない、という結論になる。だから神は愛なり、といえるのだ。力の作用から見た場合には、力学の立場からいえば、出力は入力より大きいという法則はない。しかし、マイナスになった場合には神のもとに帰ることができない。入力より出力が大きいところに理想がある。 

 愛の背後は犠牲

 だから、本当の親子、本当の夫婦、本当の兄弟関係が成り立つには、犠牲なる愛の目的の立場に立たなければ、「本当」という名前が成立できない、という結論になる。 もしも子供から考えた場合、自分の親が本当に自分を愛するというのは、本当に犠牲になって愛している立場をいう。犠牲になった親は悲しい立場である。しかし、子供がそれを完全に理解して、それに自分の愛をプラスさせて親に返してやれば、親は犠牲になったより以上、喜ぶというんだね。だから本当の夫婦というものは、共に犠牲になって、相対者と共に行くような立場に立てば、永続的に犠牲の力に加わって愛というものがもとがえされる。だから夫婦というものはそれ以上の苦しみで結ばれたら永遠に一つになれる。 本当の友達というのは、自分のためにすべて犠牲になるものである。結局、愛というものが位置をとって立つには、本当に犠牲になり授けてやる立場に立って成立するものである。だから愛の背後には犠牲が伴う。今まで、神は人間を本当に愛せなかった。堕落したのだから、完成されるまでの力の投入を、まだ神が完全にしていないから愛することができない。 愛というものを、本当に願う者があったならば、神と同じ立場に立って、神自体が愛の相対者を完全に完成するには完成するまですべてを投入する。子供が成長して結婚するまで、親は一切を投入する。すべてを犠牲にし、親に対する心情圏が分かるまで投入しなければならない。そして心情圏が分かり、親孝行する立場に立つようになれば、犠牲にしたすべてを忘れて、親は喜びを感じるようになる。それが愛の道である。 愛の目的を完成する道においては、原理原則から見た場合に、神の立場から考えた場合に、犠牲ということを我々も通らなければ、完成基準を満たすことは絶対不可能である。堕落した人間は、自分自体では力の投入ができないから、完成するまで力を投入し得なかった神の基準を、自分を通して理想の自分を再創造させていこうと、神を背負い、働きかけて、自分の完成をなしていくのが復帰の道である。 

 

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み旨と世界
23・摂理的歴史の光の中にあって
1977年2月23日 ニューヨーク ワールド・ミッション・センター

1・人間としての誇り

 きょうは、皆様も御存知のように、私の誕生日です。私のきょうのメッセージは、「摂理的歴史の光の中にあって」です。

 原理によって私達は、アダムとエバの堕落が人類歴史の行く道を決定したことを知りました。堕落していなければ彼ら自身、全人類と宇宙を伴って完成したはずでした。アダムとエバの完成、そして地上における神の下にある彼らの家庭の完成と繁殖は神の最初の計画でした。最初の国家ができ、それを繁殖し、ついにはすべての国家が神に仕える世界が築かれるはずでした。
 アダムの一族が唯一の民族、すなわちアダム民族となり、一つの国家、アダム国家ができ、そして全世界がアダム民族によって満ちあふれる世界となるべきでした。さらに全宇宙の中心は、神でありアダムとエバとなる予定でした。

 神は、宇宙のすべての生き物の中心なので、私たちの毎日の生活は神を中心としております。すべての伝統的生活の方法も、神に根源を発するべきでした。全歴史、伝統、習慣は、神に端を発したものとなるはずでした。そしてそれらは、すべて神の愛を根底とし、神の愛に繋がったものとなるはずでした。完成された世界は、神の愛から離れることのできない世界となっていたことでしょう。どんなに神の愛から離れようと努力してみても、離れることのできない世界であったでしょう。

 この地上において人間には、親から離れると寂しく、会いたいと願う傾向があり、特性があります。特に幼なければ幼いほどそうです。二、三日も両親から離れていると、すぐに会いたくなります。この人間の性質は、人類の本性から来たものです。ですから、この切っても切れない関係は維持できるのです。この関係が壊れた時、人間は神なくして孤独に耐えることができません。

 もし、人間に誇りうるものがあるとすれば、それは何でしょうか。完成された世界における人間としての最高の誇りは、神を自らの父親として所有することです。神が、自分の父であることを、皆さんは、知らないのですか。

 次に最高の誇りであるのは、神の愛を所有することです。神の愛の独占権を持つことです。完成された世界において、三番目に誇りうることは、神の持っている物を、すべて相続するということです。神の持っているものすべてが、私のものとなるのです。この世には、多くの社会的地位があり、多くの人が「私の父は、博士号を持っています「私の父は、医者です。」とか「私の父は、スウェーデン王朝の出身です。」とか言って誇っております。しかし、考えてみて下さい。皆さんは、「私の父は、神です。」と言えるのです。
多くの人々は、自分が有名人の息子であることを誇りにしていますが、しかし父親とは何の愛情の関係も持っていない人が多いのです。しかし皆さんが、神は私の父です、と言うことは、すでに皆さんが、天の父と愛の絆を持っているということなのです。

 あなたが、天の父の子だとしましょう。するとすべての召使いは、あなたがその家の主人になるということがわかります。もしあなたが、神の子であるとすれば、あなたがすべての創造物の主人となるであろうということを全天使たちは、知っておりますから、彼らは、あなたを敬まわなければなりません。神は、神自身を父とし、人類を息子とした歴史を予定しました。神の家庭、神の歴史と文化は、千年、万年とそれは続いたでしょう。それは、神の最初の願いでした。人間の野心と希望は、どこに根源を発しているのでしょうか。

 人間の最高の誇りとは、何でしょうか。ここで私達は、人間の第一番目の最高の願いは、神の息子、娘となることであるという結論に達します。第二には、神の愛を所有すること、そして第三には、神の国を相続し、神のもっているもののすべてを相続することです。

 人類にとって、これ以上大きな希望はありません。それでは、人類の希望と願いとは何でしょうか。
第一に神の息子、娘となること、
第二には、神の愛を所有すること、
第三に、この地上を受け継ぐことです。
神の息子、娘となるにはどうすべきでしょうか。
 

◆善悪の判断

 もし、堕落がなったとしよう。あなたが生まれる時、あなたは、どうして生まれてきたでしょう。自動的に、神の息子として生まれてきたことでしょう。それでは、堕落とは何でしたか。それは、人間が神から離れたことです。その堕落とは一体何でしょうか。その不倫な愛から堕落した国家が始まりました。

 神の下にあって一つとなる代りに、天使長は、神の立場に立ってアダムとエバを奪い取り、自分の僕として主管してしまいました。それ以来、全人類は神の血統ではなく、サタン直接の血統を受け継いで生まれてきたのです。この堕落が現実となった今、私たちが、いくら神を父と呼んでも、無意味なものとなってしまったのです。

 この堕落世界では、利己主義と自己中心がすべての中心となっています。私たち人間は、すべてを無視し、神御自身までも無視しようとしています。なぜなら、私たちの主人は、神ではなくサタンだからです。サタンが、私たちの主人なのです。堕落の後、人間の中に柔盾が生じてきました。家庭での闘争が、歴史上で繰り返されてきました。サタン文化の中にある堕落人間は、分裂と分離をくりかえして発展してきました。神の歴史は統一と調和の歴史であり、サタンの歴史は分裂の歴史であります。

 しかしながら、堕落世界においても全人類は、元の中心である神に帰りたいという願いを内蔵しています。このために、人類は周囲のサタン的状況から、救われなければなりません。原点へ帰ろうとする人は、壮烈な闘いをしながら生きるでしょう。その人は、サタン世界の中にあって、厳しい戦いを通過しなければなりません。

 人類歴史は、お互を引っぱりあっている網引に描写されます。この闘争は、個人から始まり、家庭、国家へと拡大してきました。原点を見つける闘いが人類歴史でした。人類の戦争歴史は、家庭、国家、世界に至るすべての段階においての善と悪との闘争歴史なのです。各家庭に各々の厳しい闘いがありますが、しかし、どのような戦争であろうと、すべての段階において、神側の勝利者は、神の領域を拡大してきました。

 

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み旨と世界
8・真の父母と我々
父母の位置

 こういうふうにして、これが初めて一つになってこそ、カイン、アベルが一つになってこそ理想的父母が生まれてきますよ。理想的父母、カイン、アベルが一つにならないというと父母を復帰することができないというんだね。カイン、アベルが一つにならないというと父母に帰る道も出てこないし、カイン、アベルが一つにならないというと父母というものを復帰することもできません。

 

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み旨と世界
23・摂理的歴史の光の中にあって
1977年2月23日 ニューヨーク ワールド・ミッション・センター

◆先生は深刻である

 きょう、十二月一日、先生は非常に深刻な話をした。きょう先生が語ったことを、これからの四十日、ないし三十日で準備していけば成功するだろう。

 先生が思うに、大会の日は五月二十七日がいいと思う。今月十二月から五月まで、六カ月ある。そのうち一カ月が三十一日の月が三回ある(十二月、一月、三月)から、五月二十七日であるからこの三数をプラスして、完全なる六カ月になるのである。五月二十七日は歴史的転換点になるのである。皆さん一人一人が、六〇〇〇年の歴史を集結して、神様の歴史自体において、聖人先人たちが信じていた、あるいはすべての我々の先祖たちが信じていた復活体となって、イエス様以上に精誠を尽くす時なのである。摂理歴史において間違いなく、あとにも先にもない歴史の最頂点に立ってあらゆる力を尽くして、私が神様の前に立って「君はそれ以上できなかったのか」と聞かれた時、「自己のでき得る最大の基準までやりました」と言えるようになれば、皆さんも先生も、責任を免れるのである。これをもし、知って、あらゆる精誠を尽くさないとするなら、億千万代の恨みとなるのである。皆さんと先生が一つになって、二十四時間、サタンも休まないし神様も休まない、我々も休まない。そのような思いをもって、これからの六カ月、最後の地獄のような期間であり、再び、あってはならない期間であり、思うだけでも身震いするような期間を、皆さんは真剣に越えなければならない。

 そういう思いでもって、あらゆる精誠を尽くして神の前に誓い、きょうから六カ月、総動員していこう。


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